後三国志 第五回
(312~373)
字は、元子。亡命政権・東晋の武将。
華北の後趙政権では、石勒が没しやがて石虎が君臨することとなった。しかし石虎は五胡十六国時代屈指の暴君で、徴発のため領民の多くが破産するほどであった。
その暴君も西暦349年に没し、彼の息子たちの時代となる。その中で台頭してきたのが石閔であった。彼は漢族の出身であったが、勇猛さを評価され石虎の養子となっていたのである。しかし石虎の暴政で同じ漢族が苦しむのを見て、彼は異民族を極度に憎むようになった。
石閔は、石虎の死後、政権を掌握するとケツ族をはじめとして中原に住む騎馬民族、20万人を虐殺した。そして姓をもとの「冉」に戻し、帝位に即き、国号を「魏(冉魏)」とした。しかし軍事力においては華北は騎馬民族の影響下にあり、彼の政権は脆弱なものであった。つまり華北が勢力の空白地帯となったのである。
そこで今回の桓温の登場となる。彼は東晋の西部方面軍司令であり、西暦347年には益州の成漢(テイ族の政権)を破り、かの地を併合する功績を挙げて、すでに東晋の実力者となっていた。
桓温はさらなる勢力拡大を目指し、北伐を計画した。以前にも東晋は華北に兵を進めたこともあったが、失敗に終わっていた。しかし華北の空白地化により東晋の国力でも十分な成算を見込めると彼は判断し出兵。西暦356年ついに旧都・洛陽を回復、この功績により彼は実質東晋を支配するに至った。
以後、土断法を施行し財政基盤を固めるとともに、東晋の乗っ取りの準備を進めた。
西暦369年、華北で勢力を拡大していた鮮卑慕容部の政権「前燕」を討つべく、再び北伐軍を起こしたが前燕の名将・慕容垂の前に敗退した。
敗戦の後も簡文帝を擁立するなど、絶大な権勢を誇ったが、反桓温派の廷臣たちによる工作で結局桓温は禅譲を受けることができないまま西暦373年病死した。
東晋乗っ取りという彼の野望は、彼の息子・桓玄により西暦403年に成し遂げられるが、彼の王朝はわずか3ヵ月後、劉裕の挙兵により崩壊することとなる。
←冉魏の混乱に乗じて、桓温が北伐を行い、洛陽を回復する(356年)。
幽州で勢力を拡大していた慕容部が前燕を建国、中原に進出。また関中ではテイ族の政権・前秦が台頭。
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