北魏・太武帝
(408~452)
北魏を築いた鮮卑・拓跋部は、かつて「代」という政権を建てたものの、辺境の弱小勢力にすぎず、中原の大国に幾たびも支配された。やがて優れた指導者・拓跋珪(道武帝)が現れ、前秦崩壊の混乱期に乗じて勢力を拡大、後燕と覇を競った。
後燕が創始者・慕容垂の死後、衰退するとその領土である河北に進出し、「北魏」を建国した。拓跋珪は、漢人官僚を登用し、法を整備するなど漢化政策を進めた(*多くの漢族人士は心服しておらすその武威に屈していただけであった)なかでも部族解散は、族長と部族民を分離し中央による直接支配を可能にした結果、遊牧国家に見られる君主交代時の国家崩壊を回避し、北魏を長期政権とした。
拓跋珪が次子に殺害されると、この混乱を収めた長子・明元帝が即位した。彼は、父の路線を継承する一方、遊牧民出身者を重用し彼らの不満解消に心を砕いた。こうして内政に力を注いで、河北にしっかりと地歩を固め、その治世の後年には北方に柔然を討ち、河南に宋を撃破して洛陽を版図に加えた。
明元帝の亡くなると、三代目・太武帝が即位した。彼の時代は、祖父・父の遺した貯金で北魏の拡大期に入る。まず彼は、宋と和議を結ぶと柔然を討伐しこれを遠方に駆逐、北方の安定を獲得した。そして関西の混乱に介入し、夏に侵攻、首都・統万城を占領、西暦431年にこれを滅ぼした。さらに436年には北燕を、439年には北涼を滅ぼし、ここに華北統一が達成された。
これにより五胡十六国時代が終焉し、南北朝時代が幕を開けた。
また太武帝は、宰相に崔浩を任じ北魏の国是でもある漢化政策を強力に推し進めた。この期間に中華的なものを尊び、外国的なものを排斥する風潮が極端に進行、その一例が仏教弾圧である(三武一宗の法難)。なお彼の政策は急進的で、遊牧系人士の不満を招き、国史編纂をめぐって彼は処刑された(国史事件)。
西暦450年、宋が北伐軍をおこすと太武帝も大軍を編成しこれを大破した。勢いに乗った北魏軍はそのまま南下し江北を席巻、長江北岸にまで進出したが、宋都・建康には攻め入らず軍を返した。宋側の被害は甚大で、宋最盛期・元嘉の治はこの戦禍により崩壊した。
この遠征中、首都では皇太子・拓跋晃と側近の宦官・宗愛が対立し、皇太子が急死してしまう。452年、責任追及をおそれた宗愛は、太武帝を殺害してしまう。まもなく宗愛らは誅殺され、太武帝の孫にあたる文成帝が即位した。
五代・文成帝、六代・献文帝の時代も中華帝国を目指して漢化政策は進行し、それは次代・孝文帝の時代に完成を見る。
北魏・孝文帝
(467~499)
孝文帝の治世には、漢化政策の完成に向けてのさまざまな改革がなされた。官制を改め内朝と呼ばれる側近・ブレーンを廃止し、中華的官僚制度に一元化し、遊牧系人士の家格を定め、胡族の服装・言語を完全に中国制に改めた。また三長制(村落制度)やこれを基にした均田制といった新制度を施行した。
これらの改革により漢化はほぼ達成され、残るは遊牧民の都・平城から、中華の都・洛陽への遷都であった。
しかし長年の首都である平城からの遷都にはさすがに反対が根強かった。そこで孝文帝は、反対を承知の上で南征を開始し、遠征中止と引き換えに洛陽遷都を飲ませたのである。
かくて北魏は中華帝国へと変貌を遂げ、漢族人士を信服させることに成功したのである。しかし北魏の漢化は、漢族人士から忠誠心を引き出し、漢・胡の融和を導き出したというプラス面も大きかったが、反面貴族化による中央軍の弱体化と遊牧系人士間の格差発生という社会構造の問題を生んだ。やがてこれらの問題点は「六鎮の乱」という騒乱を招き、北魏滅亡の原因となっていくのである。
←二代・明元帝の治世。北魏軍が宋を打ち破り河南へ進出している。
←三代・太武帝の時代。太武帝は西方の夏・北涼、北方の北燕を滅ぼして華北を統一。時代は南北朝時代へ。
←七代・孝文帝の時代。北魏最盛期。江南では、宋が滅び、蕭道成により斉が建国されている。
最近のコメント