首相もしてまんねん。

Photo 【た】高橋是清

(1859~1936)

 第20代内閣総理大臣。大蔵大臣としての方が有名。

 幕府御用絵師の子として生まれる。生まれてすぐ仙台藩の足軽・高橋家に養子に出された。その後海外留学を経て、森有礼の知遇を得て官途についた。官僚としては文部省・農商務省・日本銀行に勤めた。1905年貴族院議員に選ばれる。

 1913年第一次山本権兵衛内閣の大蔵大臣に就任。1918年原敬内閣でも蔵相を務めた。そして原敬が暗殺されると立憲政友会総裁となり、第20代の内閣総理大臣に就任した。しかし高橋内閣は原敬暗殺後の混乱の収拾がつかず、わずか半年で倒閣してしまう。

 1927年におこった金融恐慌のさなか成立した田中義一内閣でまたも大蔵大臣に就任、日銀総裁・井上準之助と協力してモラトリアム支払猶予措置)の実施と紙幣の大量発行により恐慌を収束させた。

 犬養内閣で4度目の蔵相を勤め、世界恐慌によるデフレからの脱出に尽力した。その後斉藤内閣、岡田内閣でも蔵相を務めた。しかし岡田内閣での軍事予算削減が軍部の恨みを買い二・二六事件で暗殺された。

Photo_2

 

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ヒストリカルヒロイン1

Photo_2 テオドラ

(?~548)

 東ローマ帝国皇帝・ユスティニアヌスの皇后。夫をたすけて東ローマ帝国の最盛期を築いた。

 かつて地中海世界を統一し、栄華を極めたローマ帝国も五賢帝の時代を頂点に衰退し、テオドシウス帝の死により帝国は東西に分裂する。西ローマ帝国は異民族に要衝を次々と奪われ476年に滅亡、一方豊かな小アジアやエジプトを確保できた東ローマ帝国は、異民族を撃退しその勢力を維持していた。

 そんな情勢の5世紀はじめにテオドラは猛獣使いの子に生まれる。成長してからはサーカスの踊り子として、またときには売春婦として生計を立てるなど最下層の市民であった。

 彼女が20代前半のとき、元老院議員で、時の皇帝・ユスティヌス帝の後継者のユスティニアヌスに見初められる。テオドラに魅了されたユスティニアヌスは、当時存在していた元老院議員と踊り子との婚姻を禁止する法令を改廃させてまで、彼女との結婚を強行した。

 やがてユスティニアヌスが皇帝に即位すると、テオドラは皇后となった。ユスティニアヌスは、東方の大国・ササン朝ペルシアを撃退し、異民族に支配されている西ローマ帝国の旧領を回復するという野望を抱いていた。彼は名将・ベルサリウスを得て、その野望を実現していくのであるが、そのための戦費は、重税により賄われた。そのため市民に不満が広がっていった。

 536年戦車レースの観客がおこした暴動にユスティニアヌスの政策に不満を持つ一派が加わり、新帝を擁立してしまう大事件が発生する。「ニカの反乱」である。暴動は拡大し皇帝の身辺にも危険が及ぶようになり、ユスティニアヌスは帝都から逃亡しようとする。このときテオドラは帝都に留まり、断固反乱に立ち向かうべきと説得(「帝衣は最高の死装束である」と説いたらしい)、皇帝はこれを容れて反乱を鎮圧することに成功し彼の最大の政治的危機を脱することができた。

 その後もテオドラはユスティニアヌス帝の優柔不断なところを補い、東ローマ帝国はその版図を次々と広げていった。西暦548年病没。

 テオドラとユスティニアヌスにより作り出された東ローマ帝国の最盛期は、財政危機や軍の弱体化などの多くの問題を次代に残すこととなった。そして彼らの死によりこれらの歪が噴出し、栄華はもろくも崩れ去ってゆくのである。

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観応戦記1

第一回:足利幕府の成立

Photo_3

【鎌倉末期の動乱】

 鎌倉時代中頃、皇室は後深草天皇の系統「持明院統」と亀山天皇の系統「大覚寺統」にわかれ皇位を巡って対立していた。幕府はこれに介入し、両系統から交互に天皇を出す方針(両統迭立)を示し、対立に一応の決着をつけた。

 やがて大覚寺統から後醍醐天皇が即位する。後醍醐帝は、当時としては珍しく33歳の壮年での即位であり、自ら政治を執り行うことを熱望したが、他の皇族やこれを後押しする鎌倉幕府の圧力があって難しく、大変不満であった。このことが倒幕を天皇に決意させる。

 鎌倉時代末期、幕府の権力はことごとく北条得宗家に集中し栄華を極めていた一方で、経済的に困窮している御家人も多く、幕府の求心力は低下していた。これを知った後醍醐帝は、側近の日野俊朝・俊基、文観らと倒幕の謀議をこらしたがまもなく露見し、一党は処罰され天皇は隠岐に配流となった(正中の変元弘の変)。しかし近畿各地では悪党とよばれる反幕府勢力がなおも活動し情勢は不安定であった。

 1333年後醍醐帝は山陰の豪族・名和長年の力を借り隠岐を脱出、挙兵する。これに対して鎌倉幕府は大軍を派遣した。しかしその将の一人である足利高氏が天皇方に寝返り六波羅探題(京における幕府の支所)を攻略し、また関東でも新田義貞が挙兵し鎌倉を制圧、ここに鎌倉幕府は滅亡した。

建武の新政

 幕府の滅亡により後醍醐帝念願の親政が開始された。しかし建武政府の政治は朝令暮改であり国政は混乱していた。また倒幕の恩賞は公家寺社には厚く、実際に戦場で戦った武士には薄いものであり、瞬く間に武士たちの支持を失っていった。

 1335年中先代の乱を契機に足利尊氏は建武政府を離脱、関東に割拠する。建武政府は新田義貞を討伐に派遣するが箱根・竹ノ下の戦いで大敗し、逆に足利軍は京の占領に成功する。だが奥州の北畠顕家や河内の楠木正成ら建武政府軍の猛反撃に遭い敗北、九州へ敗走を余儀なくされた。

【足利幕府成立】

 九州に逃れた足利尊氏は、政府方の菊池軍と多々良浜で戦いこれに勝利を収めた。すると建武政府の方針に不満の武士が続々と参集、一月余りで九州を制圧して再び京へ進撃を開始する。

 建武政府は新田・楠木の両将を派遣したが、湊川の戦いに惨敗、足利軍が京を再占領して建武政府は崩壊した。

 その後、後醍醐帝はいったんは足利尊氏と和睦したものの、京を脱して吉野に逃れ南朝を興し足利方と対峙した。しかし南朝の主力武将である新田義貞が越前で戦死し、北畠顕家は和泉で戦死するなど劣勢は覆いがたかった。

 そして1338年、足利尊氏は征夷大将軍の宣下を受け、足利幕府が成立したのである。

Photo_2 【足利尊氏】1305~58

 足利幕府の初代将軍。源氏の名門で有力御家人である足利家に生まれる。鎌倉幕府打倒に大きな功績を挙げる(この功績を賞し、後醍醐天皇から「尊」の一字を与えられ高氏から尊氏に名前が変わった)が、建武政権から離脱し独自の武家政権を築き、のち征夷大将軍に任命された。

 彼は非常にカリスマ性があり多くの武士の支持を得たが、調子の高不調の波が大きく、弟・足利直義や側近・高師直の補佐が欠かせなかった。

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後三国志 第十回

Photo 蕭道成

(427~482)

 南朝・の創始者。太祖・高帝。

 劉裕が建国した宋は、三代・文帝の治世に最盛期を迎えた。元嘉の治と呼ばれるこの時代は、北魏・太武帝の南征により終焉を向かえ、宋の国勢にかげりが見え始める。文帝は皇太子・劉邵に殺害され、これを討った孝武帝は劉邵の一族をことごとく殺害した。孝武帝の子(前廃帝)を殺害して即位した・明帝も他の皇族を次々と殺害、こうした皇族による血みどろの内紛は、人心を離反させ、宋は急速に衰退した。

 明帝が崩じると長子・劉昱(後廃帝)が即位した。幼いながら彼も暴虐であったといわれ彼を廃位しようとたびたび反乱が発生した。この反乱鎮圧に活躍したのが淮南方面軍司令の蕭道成であった。彼はこれらの功績により、近衛軍司令に栄進しやがて中央の軍権を掌握することとなる。

 劉昱は力をつけた蕭道成を抹殺しようと陰謀を巡らすが、逆に蕭道成に殺害されてしまう。蕭道成は政敵を次々と排除し、順帝を擁立して独裁権を確立した。そして西暦479年ついに順帝より禅譲を受け即位、『斉』を建国した。

 蕭道成と二代・武帝は、宋後期の乱れた政治を改めて宋初期の状態に戻そうと改革を断行した。徴税逃れのための戸籍改ざんにメスを入れたり、地方で横暴な振る舞いの多かった台使(徴税官)の廃止はその一例である。

 しかし恩倖とよばれる人々を重用する人事方針は継続されるなど宋時代の悪弊を一掃することはできなかった。加えて宋同様皇族の内紛は繰り返されたため、斉の威勢は振るわず、23年の短命政権となってしまうのである。

Photo_2 ←479年、蕭道成により斉が建国される。宋中後期に北魏に出兵したが、いすれも失敗。斉は山東を失った状態でのスタートとなった。

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後三国志 第九回

Photo 北魏・太武帝

(408~452)

 北魏を築いた鮮卑・拓跋部は、かつて「代」という政権を建てたものの、辺境の弱小勢力にすぎず、中原の大国に幾たびも支配された。やがて優れた指導者・拓跋珪道武帝)が現れ、前秦崩壊の混乱期に乗じて勢力を拡大、後燕と覇を競った。

 後燕が創始者・慕容垂の死後、衰退するとその領土である河北に進出し、「北魏」を建国した。拓跋珪は、漢人官僚を登用し、法を整備するなど漢化政策を進めた(*多くの漢族人士は心服しておらすその武威に屈していただけであった)なかでも部族解散は、族長と部族民を分離し中央による直接支配を可能にした結果、遊牧国家に見られる君主交代時の国家崩壊を回避し、北魏を長期政権とした。

 拓跋珪が次子に殺害されると、この混乱を収めた長子・明元帝が即位した。彼は、父の路線を継承する一方、遊牧民出身者を重用し彼らの不満解消に心を砕いた。こうして内政に力を注いで、河北にしっかりと地歩を固め、その治世の後年には北方に柔然を討ち、河南に宋を撃破して洛陽を版図に加えた。

 明元帝の亡くなると、三代目・太武帝が即位した。彼の時代は、祖父・父の遺した貯金で北魏の拡大期に入る。まず彼は、宋と和議を結ぶと柔然を討伐しこれを遠方に駆逐、北方の安定を獲得した。そして関西の混乱に介入し、夏に侵攻、首都・統万城を占領、西暦431年にこれを滅ぼした。さらに436年には北燕を、439年には北涼を滅ぼし、ここに華北統一が達成された。

 これにより五胡十六国時代が終焉し、南北朝時代が幕を開けた。

 また太武帝は、宰相に崔浩を任じ北魏の国是でもある漢化政策を強力に推し進めた。この期間に中華的なものを尊び、外国的なものを排斥する風潮が極端に進行、その一例が仏教弾圧である(三武一宗の法難)。なお彼の政策は急進的で、遊牧系人士の不満を招き、国史編纂をめぐって彼は処刑された(国史事件)。

 西暦450年、宋が北伐軍をおこすと太武帝も大軍を編成しこれを大破した。勢いに乗った北魏軍はそのまま南下し江北を席巻、長江北岸にまで進出したが、宋都・建康には攻め入らず軍を返した。宋側の被害は甚大で、宋最盛期・元嘉の治はこの戦禍により崩壊した。

 この遠征中、首都では皇太子拓跋晃と側近の宦官・宗愛が対立し、皇太子が急死してしまう。452年、責任追及をおそれた宗愛は、太武帝を殺害してしまう。まもなく宗愛らは誅殺され、太武帝の孫にあたる文成帝が即位した。

 五代・文成帝、六代・献文帝の時代も中華帝国を目指して漢化政策は進行し、それは次代・孝文帝の時代に完成を見る。

Photo_3 北魏・孝文帝

(467~499)

 孝文帝の治世には、漢化政策の完成に向けてのさまざまな改革がなされた。官制を改め内朝と呼ばれる側近・ブレーンを廃止し、中華的官僚制度に一元化し、遊牧系人士の家格を定め、胡族の服装・言語を完全に中国制に改めた。また三長制(村落制度)やこれを基にした均田制といった新制度を施行した。

 これらの改革により漢化はほぼ達成され、残るは遊牧民の都・平城から、中華の都・洛陽への遷都であった。

 しかし長年の首都である平城からの遷都にはさすがに反対が根強かった。そこで孝文帝は、反対を承知の上で南征を開始し、遠征中止と引き換えに洛陽遷都を飲ませたのである。

 かくて北魏は中華帝国へと変貌を遂げ、漢族人士を信服させることに成功したのである。しかし北魏の漢化は、漢族人士から忠誠心を引き出し、漢・胡の融和を導き出したというプラス面も大きかったが、反面貴族化による中央軍の弱体化と遊牧系人士間の格差発生という社会構造の問題を生んだ。やがてこれらの問題点は「六鎮の乱」という騒乱を招き、北魏滅亡の原因となっていくのである。

Photo_4 ←二代・明元帝の治世。北魏軍が宋を打ち破り河南へ進出している。

Photo ←三代・太武帝の時代。太武帝は西方の夏・北涼、北方の北燕を滅ぼして華北を統一。時代は南北朝時代へ。

Photo_2 ←七代・孝文帝の時代。北魏最盛期。江南では、宋が滅び、蕭道成により斉が建国されている。

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恨みはらします。

Photo 【そ】孫ピン

(?~? BC4世紀頃)

 中国戦国時代の軍学者。兵書「孫臏(ピン)兵法」は彼の著作といわれている。

 学生時代、同門にホウ涓という人物がいた。ホウ涓は学問を修めた後、の恵王に仕えその才を認められて将軍に抜擢された。そして彼は優れた才能をもつ孫ピンが自分の将来の妨げになると考えるようになる。そこでホウ涓は孫ピンを言葉巧みに魏に呼び寄せ、不実の罪を着せて“臏(ヒン)刑;膝下を切断する刑罰”に処した。

 刑の執行後は魏に軟禁されていたが、の使者の協力を得て魏を脱出することに成功、斉に赴くこととなる。

 斉では威王や将軍の田忌に認められ、魏が趙へ侵攻すると、田忌とともに趙救援に出陣した。このとき孫ピンは、趙に直接出兵するのではなく、備えの手薄となった魏本国へ進軍して、あわてて帰国してくる魏軍を待ちうける作戦(囲魏救趙)を提案した。戦況は彼の予測どおり進捗し、斉軍は桂陵で帰国途上の魏軍を大いに撃破した(桂陵の戦い)。

 桂陵の戦いから13年後、魏は大軍をおこし、今度は韓を攻めた。そして魏軍の司令官はホウ涓であった。韓は斉に救援を要請、田忌と孫ピンは再び出陣することとなる。

 前回同様斉軍は魏領に兵を進めた。魏軍もこれを予期しており、直ちに転進して斉軍を撃つ態勢を整えた。そこで孫ピンは、斉兵は弱いという世評を計算に入れた減竃の計を立案する。

 斉軍を追撃する魏の司令官・ホウ涓は、日に日に斉軍の竃の数が減っていることを脱走兵が続出していると判断し、これを撃滅して大功を挙げるまたとない機会と思った。そしてすぐさま歩兵を切り離し、機動部隊を編成、斉軍を猛追した。

 斥候の報告により、ホウ涓の猛追を確認した孫ピンは、夕刻暗くなるころに隘路・馬陵を通過すると予想、道端の大木の皮をはがしホウ涓にメッセージを残すと、伏兵をおいて魏軍を待ち伏せた。

 はたして夕闇のころ、ホウ涓は馬陵にさしかかった。すると道端の木の皮をはがされたところが薄暗がりに浮かび上がり、そこに何か文字が書いてあるようであった。そこでホウ涓は松明をつけて確認してみると、そこには

「ホウ涓この木の下に死せん。」

と記してあった。ホウ涓がハッとするが早いか、斉の伏兵が松明目がけて襲い掛かる。敗戦を悟ったホウ涓は自害して果て、斉軍はまたも大勝を博したのである(馬陵の戦い)。

 この二度の大勝利により、孫ピンの名は不朽のものとなった。しかしその後彼がどうしたかは史書の記されておらず、歴史の闇に消えたままである。

 

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後三国志 第八回

Photo_14 劉裕

(363~422)

 南朝・劉宋)の創始者。武帝。

 永嘉の乱により華北を失い、江南に成立した東晋は、皇帝直属の軍勢は少なく軍閥のバランスの上に成立していた。東晋成立当初は軍閥の領袖を牽制しようとして反乱をおこされてしまう(王敦の乱、蘇峻・祖約の乱)混乱もあったが、そのなかで北府・西府の体制が整っていった。

 両府とも大軍を擁しており、東晋政府対して大きな影響力を持っていたが、特に西府の総帥は東晋領土の西半分ともいうべき荊州の政治・軍事の長官を兼ね、中央政府を凌ぐ実力を有していた。この西府から桓温が登場し東晋を簒奪しかけたのは前述した通りである。

 そして桓温の没後、彼の簒奪を防いだ謝安が首班となって国政を運営、前秦の大攻勢を淝水で撃退したのもすでに述べたところである。謝安亡き後、国政を司ったのは皇族の司馬道子であった。しかし彼は政治家としての資質に乏しく、権力を私物化するばかりであった。さらに悪いことに五斗米道の指導者・孫恩の反乱が発生、江南は混乱を極めた。この反乱は北府軍の活躍で鎮圧され、武功著しい劉裕が頭角を現すこととなった。

 乱後、中央を掌握したのは、反乱を鎮めた北府の総帥・劉牢之ではなく、西府の総帥・桓玄であった。彼は中央救援を名目に出兵し、首都・建康を占領、すばやく劉牢之ら北府の実力者を粛清して大権を握ったのである。そして401年桓玄は父・桓温からの宿願であった帝位に即いた。

 しかし北府の将士をはじめとして桓玄に反感を抱くものも多く、劉裕はこれら反対勢力をまとめて404年に挙兵、桓玄を滅ぼして東晋の復興に成功する。とはいえ東晋第一の実力者となった彼にとって晋帝は傀儡にすぎず、桓温同様北伐軍をおこしたところを見れば新王朝樹立への野心のあることは明らかであった。

 このころ関東では慕容垂亡き後、北魏の攻勢を受け後燕は衰退し、山東で皇族の慕容徳が独立(南燕)、分裂状態であった。また関西では一時河南一帯にまで領土を拡大していた後秦が、劉裕からの領土割譲要求を受け入れて後、威勢を失い、服属諸国があいついで独立、大きく勢力を後退させていた。

 西暦409年、劉裕はまず山東へ出撃し南燕を滅ぼした。さらに416年再び北伐軍をおこすと洛陽・長安を占領する大戦果を挙げることに成功、ここに新朝開基の準備は整った。

 西暦420年、劉裕は禅譲を受けて即位、宋王朝が成立した。彼は土断を実行して国力の増大を図り、また豪族の力を抑え、北府・西府の総帥を皇族に限るなど、有力武将の台頭を防止する政策を執った。422年病没。

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←桓玄の乱の混乱期に後秦が河南に進出、全盛期を迎える。一方関東の後燕は衰退し、南燕の分裂が追い討ちをかけている(404年)

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 ←劉裕の北伐が成功し、東晋が一時的に洛陽や関中を回復している(417年)。華北では後燕が武将の馮跋に滅ぼされ北燕が成立、また北魏が南下し中原に進出している。関西では後秦滅亡後その従属化にあった中小諸国の乱立状態となっている。

Photo_17

←宋の成立時(420年)。南朝の国力ではやはり関中・河南を維持するのは難しいようで、関中では匈奴系の夏が長安に入城して勢力を伸張させている。この直後洛陽も北魏に奪われる。

 

 

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後三国志 第七回

Photo_2 慕容垂

(326~396)

 前燕の皇族。武勇に優れ、前燕を代表する武将であったが、その名声を他の皇族たちに疎まれ、前秦に亡命した。亡命後は、前秦の皇帝・苻堅に重用され前秦の華北統一に大きく貢献した。

 383年苻堅は、100万と号する大軍をおこして南征に着手、慕容垂もこれに従軍した。対する東晋は、宰相・謝安を総司令官とし、その甥・謝玄らに20万の軍勢を授け、両軍は淝水をはさんで対峙した。世にいう「淝水の戦い」である。

 兵力で優位にたつ前秦軍であったが、諸部族混成という弱点があり、東晋軍はそのあたりに勝機を見出そうとしていた。前秦軍に朱序という武将が従軍していた。彼は東晋の将軍で先年襄陽の戦いで前秦に捕らえられ降伏していたのであるが、東晋への忠心捨てがたく内応者となっていたのである。

 そこで謝玄は使者を派遣して、前秦軍が少し後退してくれるなら、渡河して決戦に及ぶ旨を伝え、苻堅も半渡戦法で東晋軍を撃滅しようとこれに応じた。そして約束通り前秦軍が後退を開始、東晋軍は渡河をはじめた。その時朱序が「我が軍敗戦!退却だ!」と偽報をばらまいたため、作戦を知らされていない前秦軍の将兵は、攻撃に移るどころか次々に敗走、そこに渡河を終えた東晋軍が追撃を開始しついに前秦軍は大敗を喫してしまう。

 苻堅自身もわずかな家来に守られ敗走し、やっとのことで慕容垂の陣に逃げ込んだ。このとき慕容垂の家臣達は苻堅を殺し独立するよう進言したが、慕容垂はこれを退けて言った。

「国を追われた私を国士として遇してくれた恩義を忘れてはならない。故国・燕の復興は関西(前秦の本拠地)ではなく関東でやろう。」

 この後慕容垂は洛陽まで苻堅を送り、そこで東国を鎮撫する名目で関東に去った。

 淝水の戦いの後、前秦は斜陽の一途をたどりそれまで支配下にあった諸部族は続々と独立、華北は再び群雄割拠の時代となる。関西では385年に苻堅を殺害した姚チョウ後秦が、関東では慕容垂が建国した後燕が強勢となった。

 しかし後燕に早くも暗雲が垂れ込める。慕容垂の晩年、山西北部で台頭しつつあった北魏の軍勢に後燕軍が参合陂において大敗したのである。翌年慕容垂は自ら北魏へ遠征し、北魏の首都・平城を攻め落とす戦果を挙げるが、帰国途上病死してしまう。

 カリスマを失った後燕はこの後急速に衰退、かわって北魏が中原に進出し、時代は五胡十六国から南北朝へと移ってゆく・・・。

Photo_12

←淝水の敗戦で前秦が解体、大小軍閥の割拠状態となる(386年)。

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表もあれば裏もある

Photo 【せ】千利休

(1522~1591)

 堺の出身の茶人。侘び茶を完成させた。

 武野紹鴎などに師事し、茶の湯を学んだ。織田信長が堺を支配すると、堺の有力者であった利休は、津田宗及・今井宗久とともに茶頭として重用された。信長亡き後も茶の湯を好む秀吉の天下となったため、彼は引き続き重用された。

 1587年には北野大茶会を取り仕切り、豊臣政権における彼の権勢は絶頂期を迎えた。このとき彼の門弟の中には、豊臣麾下の大名が数多くおり(細川忠興古田織部高山右近織田有楽斎など)いかに彼の影響力が大きかったか窺える。

 しかし1591年突如秀吉に蟄居を命ぜられ、まもなく切腹となった。秀吉との茶の湯の方向性を巡る対立が原因とも大徳寺山門に利休の像が置かれその下を通らされた秀吉が怒ったことが原因とも言われている。

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後三国志 第六回

Photo_4 苻堅

(338~385)

 字は永固。テイ族の政権・前秦の3代皇帝。

王猛

(325~375)

 字は景略。漢族出身。苻堅の覇業を輔けた名宰相。

 冉魏により生じた華北の空白地化に乗じて、勢力を拡大したのは東晋ばかりではなかった。北方では遼西を拠点とする鮮卑慕容部の「前燕」は中原に進出し、後趙の崩壊により独立したテイの「前秦」は関中を領有して、華北は東晋・前燕・前秦による三つ巴の様相を呈した。

 しかし西暦369年桓温の北伐軍が前燕軍に破れ東晋が脱落すると、華北の覇権は前燕と前秦にしぼられる。

 苻堅は即位(357年)すると、王猛をはじめとして漢族知識人の補佐を受けて、戸籍・街道の整備、農業振興を行い国力を向上させ、華北の統一を目指した。しかし前燕には名将・慕容垂がいたため、なかなか手が出せない状況であった。

 ところがその慕容垂が彼の実力と名声を恐れる前燕政府に粛清されそうになり、前秦に亡命してくる事件がおこる。王猛は慕容垂の実力を危険視し殺すよう苻堅に進言するが、苻堅はこれを聞きいれず慕容垂を将軍に任命して前燕侵攻軍の一翼を担わせるなど大変に厚遇した。

 西暦370年慕容垂の活躍もあり苻堅はついに前燕を滅ぼし、華北を統一した。そして天下統一を目指して南征を計画したが、これには王猛が反対した。理由は、

①華北に住む漢族のなかには心中では未だ東晋を主人と思っているものも多いこと

②過度の民族融和策で都・長安の近くにテイ以外の諸部族(鮮卑・羌)が居住しており、万一敗戦の折に非常に危険であること

であった。苻堅は理想主義者であり、諸民族が平穏に暮らせる国家を目指し過度の融和策を執っていたのであるが、隙あらば独立して自らの国を建てんとしている時代にあっては大変な危険性をはらんでいたのである。

 西暦375年「東晋進攻を思いとどまり、鮮卑・羌などの力を削ぐ」よう遺言して王猛が病死した。しかし彼の遺言は守られることなく、西暦383年苻堅は100万と号する大軍をおこし南征を開始した。前秦軍は緒戦で寿春城を陥落させさらに南下、淝水で前秦・東晋両軍が対峙した。「淝水の戦い」の幕が切って落とされたのである。

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←前秦に英主・苻堅が登場、勢力を急速に拡大させる。前燕も東晋の軍勢に連勝し、河南を領有する(365年)。

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←淝水の戦い直前、前秦最盛期。前燕を滅ぼし華北を統一したうえ、東晋から益州を奪っている(383年)。

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